鎌倉報告

円覚寺を出た後「明月院」に向かっていくとお土産小物を打っている何軒かの店や小さな画廊、しゃれた喫茶店、レストランがあります。

このあたりのレストランは隠家的な雰囲気があり「デートコース」には最適です。最近の若い人たちは、ゆっくり鎌倉でデートをする余裕がないのか、ひたすら原宿、渋谷に集中しているキライが見受けられるが、もし僕が高校生に戻ったら」「鎌倉隠密デート」を候補として考えるだろう。

明月院は、別名「紫陽花(アジサイ)寺として有名だ。

紫陽花の時期の明月院は、それこそ「芋洗い状態」になる。以前鎌倉ハイキングのついでに見に行ったことがあるが身動きができなかった記憶がある。

昨日の明月院は、、そこまで混雑していなかったのでゆっくり堪能することができた。何といっても明月院の本堂わきの部屋の丸窓は見事な造りになっている。参拝客たちが、手前の庭側から部屋の向こう側の壁に開いている丸窓から見える景色に感動する趣向になっている。

また、明月院という名前から、院内のあちこちにウサギの置物が配置されており、参拝客たちを楽しませてくれている。(置物だけでなく本物のウサギも飼育されているということにも驚かされた)

 

お寺も参拝客を呼ぶために、いろいろ差別化を考えているということが、よくわかった。

銭洗い弁天

葛原神社から「銭洗い弁天」に行った。

早速、1000円を洗った。周りをよく見てみると1円、5円、10円、50円、100円、500円などの小銭を洗っている。そういえば「銭」を洗うのかと思い直し小銭入れに入っていた小銭を洗った。

銭洗い場の隣に、銭洗いの龍神様の石碑が建てられており、その石碑の横の立て看板に「早くお金が入ってくるようにお願いをしなさい」という内容の説明書きが書かれていた。本当なら「何ともありがたい龍神様だな「」と」半信半疑ながら真剣にお願いした。  ・・・ さて、ご利益は如何に!こうご期待あれ!

葛原神社

 

葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社です。
俊基卿は幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な人物であったので、後醍醐天皇より見出されて、優秀な側近として活躍されました。

当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ、計画を練られました。
俊基卿も、後醍醐天皇の最も信頼の厚い側近のひとりとして計画に加わり、重要な役割を果たしておりました。

ところが、正中元(1324)年、幕府打倒の計画は事前に幕府に察知され、俊基卿は捕らわれの身となって鎌倉へと送られてしまいました。
しかし、俊基卿の身を心配された後醍醐天皇が鎌倉へ万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)卿を派遣、とりなしに努めたので、翌年には京都へと戻ることが出来ました。
その後も、後醍醐天皇は屈せず鎌倉倒幕の計画を進められ、俊基卿も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしておりましたが、元弘元(1331)年、またも計画が幕府に知られ、俊基卿は天皇をかばうため、再び捕らわれの身となりました。

鎌倉へ送られた俊基卿は計画の中心人物として、翌元弘二(1332)年六月三日、幕府の手によって葛原岡にて悲劇のご最期を迎えられました。
その間、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の元弘三(1333)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

俊基卿自身は、その目で『建武の中興』を見ることなく、悲劇のご最期を迎えられましたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。

以来、鎌倉由比ヶ浜の総鎮守として、また「建武の中興」への道を開かれたことから「開運の神様」、また文章博士として優れた能力発揮されたことから「学問の神様」として、今日でも広く全国各地より篤く崇敬されております。

鶴岡八幡宮

 

 

 

鶴岡八幡宮で印象に残ったのは入り口に立つ見事な松の木(写真)と「舞殿」でした。帰宅して、ネットで調べてみると「舞殿」にまつわる、義経の妻、静御前の話が更に印象を深くしたので下記に写メしておきます。

舞殿は、本宮がある石段の下にあるので、下拝殿(しもはいでん)とも呼ばれています。
舞殿がある場所には、かつて、若宮の大きな廻廊がありましたが、1191年(建久二年)3月の鎌倉大火によって消失してしまいました。
しかし源頼朝がすぐに再建にとりかかり、2年後には現在の舞殿が完成しました舞殿は、2月の節分祭、5月の菖蒲祭、7月の七夕祭など、鶴岡八幡宮で行われる多くの行事で、祈祷が行われたり、舞や雅楽が奉納・奉奏されたりする場所です。
中でも有名なのが、4月の第2日曜日に開催されるかまくら祭の際に披露される、「静の舞」です。

静(静御前)は、「牛若丸」としても知られる、源義経の愛妾(あいしょう)です。
京の白拍子(しらびょうし)で、舞の名手でした。
白拍子とは男装をして今様歌などを謡いながら舞う人のことです。
義経に気に入られて妾となり、1185年(文治元年)、兄の源頼朝と不仲になった義経が追手から逃れるため九州に向かう際にも同行しました。
しかし途中で義経が行く先を心配し、ふたりは吉野で別れ、静は京都へ帰されます。
そして京都へ向かう道中で静は捕らえられ、母の磯禅師(いそのぜんじ)と共に鎌倉に送られてしまいました。
この時静は既に、義経との間の子どもを身ごもっていました。

鎌倉に送られた静は、1186年(文治二年)4月、源頼朝・北条政子夫妻の求めに応えて、鶴岡八幡宮で舞を披露することになりました。
静にとって、愛する人の命を狙っている頼朝の求めに応じるのは非常に屈辱的なことなので、しばらくは拒否していましたが、とうとう断り切れなくなったようです。
舞台は若宮の廻廊で、現在舞殿が建っている場所だったと言われています。
静はそこで、以下のように謡いました。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
吉野の山で別れた人が恋しい、
静、静と繰り返し呼んでくれた人と穏やかに暮らした過去が戻ってくれば良いのに、という内容です。
静の美しい踊りと歌は、見ていた者を感動させましたが、名前を出さなくとも、頼朝に逆らった義経について謡ったということは明白です。
幕府の繁栄を祈願する歌を期待した頼朝はもちろん怒りましたが、妻の政子は静の思いを理解し、「私が彼女と同じ状況だったとしても、このように謡うでしょう」と言って静をかばったといいます。
この時の静を偲び、かまくら祭の際に鶴岡八幡宮の舞殿で披露されるのが「静の舞」です。

 

 

梶原氏から聞いた話

先日、梶原氏から鎌倉が「世界遺産」に落選した話を聞いた。

落選の理由は、鎌倉は武士文化としての条件が整っていないということだったらしい。武士文化の都市として重要な要素「城」が無いということが大きく影響していたらしい。鎌倉の地形そのものが背後に山が聳え、前に海が広がっていて、自然の要塞になっている。そのためにわざわざ「城」を建造する必要がないと頼朝が判断したのだろう。そのために城下町としての体裁にはなっていない。

そのために鎌倉の武士文化の痕跡を探しても多くは残っておらず、ユネスコから見て鎌倉を武士文化の世界遺産(歴史遺産)として認定できなかったようだ。

頼朝と義経が喧嘩をするのではなく力を合わせて鎌倉幕府を建設していったならば、鎌倉はどうなっていたのであろうか?

静御前の舞とともに急激に哀れも散ってしまった感は否めない。

上記のことは、これからHPで「鎌倉物語」を制作していくうえで頭に入れておく必要がある。歴史的背景を大上段に構えて制作しても薄っぺらな感じになってしまう。また京都と比べても、その奥行きの深さは足元にも及ばない。所詮京都のイミテーションと言わざるを得ない。これは取材してみてよく理解できた。:梶原さんがよく言っている「鎌倉には意外にオリジナル商品が無いんだよ・・鳩サブレくらいしかない」・・・・出口も探したが「鎌倉彫、鎌倉ハム」くらいしか思いつかない。寺を取って考えてみても{臨済宗、浄土真宗、浄土宗・・・)本家は殆ど京都周辺にあり、鎌倉の寺は、分家か弟子が始めた寺ばかりだ。

このHPの鎌倉は、やはり「かおり」程度にとどめておくべきだろう。

逆に一般的になっている「洒落た鎌倉のイメージ」を大切にして、新しいブランドを構築し、はっしんしていけたらおもしろい

 

おみくじ

鎌倉の神社の「おみくじ」が引けるコーナー!
または独自の馬鹿馬鹿しい「おみくじ」のコーナーを設ける。
合計120種類のおみくじが用意されており000と00を集めると000がもらえる。おみくじでカードゲームのような仕掛けはできないか?

銭洗い弁天で「おみくじ」を引いたら、末吉だった。
しかし書いてある内容はバッチリだったので紹介しよう。
出産、恋愛、縁談、相場等、今の出口には全く関係ないところだけ良くないが、他は全て納得の◎二重丸です。
はなされし かごの 小鳥の とりどりに たのしみ おおき 春の のべかな
籠の中にいた小鳥が放されて自由に飛び回るように苦しみを逃れて楽しみの多い身となる運です。世のため人のために尽くしなさい 幸福(さいわい)まして名も上がります。
願望(ねがいごと)  他人を助けよ 人の助けにて叶います
待人(まちびと)   来る 音信あり

旅行(たびだち)   近いところ特に吉
商売(あきない)   利益相当あり
学問(がくもん)   雑念多し全力を尽くせ
相場(そうば)    売り買い 待て
争事(あらそい)   勝つことやすし
恋愛(れんあい)   深入りするな
転居(やうつり)   さわがず人に任せよ
出産(おさん)    安し 産後用心せよ
病気(やまい)    治り際が大切
縁談(えんだん)   無理にすれば腹立ちごとありて後に困ります
おみくじ を利用した遊びのコーナーを考えたい気がしています。

 

銭洗い弁天~鶴岡八幡宮

銭洗い弁天から徒歩で鎌倉駅に向かった。といっても標識を見ると1.4キロとなっていた。大した距離ではない。とおもっていたが銭洗い弁天から下る坂道は下手をすると転げ落ちるほどの、かなりの急勾配で、すぐに足のつま先が痛くなった。坂を下りきりしばらく鎌倉駅に向かって歩いていると、洒落たレストランが左手に現れた。このレストランは北鎌倉のレストランとは違い鎌倉在住のお金持ちが行くと思われるりだ。レストランを通り過ぎ右手を見ると鎌倉市長が現れた。「なるほどここが先日梶原氏から聞いた鎌倉市役所か!」と感慨にふけった。出口の住所が鎌倉市に移ったので先の言葉が出てきたのです。鎌倉市民になったという実感が全くわかないが、鎌倉徒然草を続けていれば、そのうちに実感できていくのだろう。

市庁舎から鎌倉駅、小町通りに入る。あまりの人込みなので、小町通りを途中で右折し大通りに出て、「鳩サブレ」で有名な「豊島屋」の前を通り、鶴岡八幡宮に向かう。

 

 

銭洗い弁天

銭洗い弁天で「おみくじ」を引いたら、末吉だった。

しかし書いてある内容はバッチリだったので紹介しよう。

出産、恋愛、縁談、相場等、今の出口には全く関係ないところだけ良くないが、他は全て納得の◎二重丸です。

はなされし かごの 小鳥の とりどりに たのしみ おおき 春の のべかな

籠の中にいた小鳥が放されて自由に飛び回るように苦しみを逃れて楽しみの多い身となる運です。世のため人のために尽くしなさい 幸福(さいわい)まして名も上がります。

願望(ねがいごと)  他人を助けよ 人の助けにて叶います

待人(まちびと)   来る 音信あり

失物((うせもの)  手近にあり出る

旅行(たびだち)   近いところ特に吉

商売(あきない)   利益相当あり

学問(がくもん)   雑念多し全力を尽くせ

相場(そうば)    売り買い 待て

争事(あらそい)   勝つことやすし

恋愛(れんあい)   深入りするな

転居(やうつり)   さわがず人に任せよ

出産(おさん)    安し 産後用心せよ

病気(やまい)    治り際が大切

縁談(えんだん)   無理にすれば腹立ちごとありて後に困ります

おみくじ を利用した遊びのコーナーを考えたい気がしています。

 

 

 

 

鎌倉報告

昨日の鎌倉は天気に恵まれどこへ行ってもものすごい人だった。

普段から多くの観光客でにぎわっていますが、花見客が重なって半端ない賑わいでした。

はじめ北鎌倉から駅前の「円覚寺」にいった。

今まで一回も寺の中に入ったことが無かったが、今回は300円の入場料を払って時間をかけて見てみた。

円覚寺は、臨済宗の寺で「禅」で有名な寺だ。

なるほど道場のような、禅をする社屋もあったり、禅の講習会、後援会の張り紙も掲示板に貼られていた。

面白かったのは領内の建てられていた「小さい古寺」が弓道場に改築されていたことだ。細長い庭の端に的の砂場が設けられており、これから試射をする人が砂に水を撒いていた。

お寺の中に「弓道場があるのは珍しいですね?」と声を掛けたら、愛想よく道場内に招き入れてくれた。

色々話を聞いたところ座って「禅修行」をすることと同じ意味で「弓道は立ってする禅だ」と教えてくれた。

屁理屈のように聞こえなくもないが、何代もまえから「禅」修行として認められているそうだ。

続く